坂井修一氏、第十一歌集『古酒騒乱』より

匙投げてよいかと問へばほつかほか西郷隆盛わらふ夕壁

終はらない書いても書いても らつきようが夜中にひかるわたしの机

きんつばをほほばりてわがおもへらく〈鍔〉の下なるしらはのひかり

はづかしいおたまじやくしでつるつるとあちこちはあはあわたしはいまも

足が出て手が出てやがてゆふまぐれにんげんが出て滅ぶひかりよ

子は口をゆがめて黙す 星にしかなれない冬の狩人のかほ

よいか君この証文をホゴにすなわれより怪しき人間となれ

火のうへで豆腐と青菜と葱が泣く泣かせしやかの日知覧の母も

朝歩くわたしはじやばら ゆれるたび光と音がからだ出てゆく

橋よわがさぶき玉の緒渡るとき波のなかから「よいか」のこゑす

この亀はこころの旅をしてゐるか石につまづき石のふりする

ワシントンもラムサールも知らずかりがねのくうと鳴くとき夕陽ふくらむ

妻はよきことば織り姫この寡黙貫くべしや冬の牛飼ひ

美名あれど歌おとろへしカナリヤよもう歌ふなよ夕陽が痛い

すきとほる父はまるごとすきとほりちかづいてゆく蓬莱の国

母はいま弥生の野辺のうすがすみさまよひ歩くゆふべの鶉

さくらさくらあこがれのごと死のひかる若き日はおほき嘘でありしや

夏とんぼガレの観るとき鉛直に立ちてしばらく裸体なるかも

赤き鳥居いくつくぐりてわがからだ夏の臓腑のうづまきやまず

さやうなら真夏の墓よちちははよ羽化せしわれはすでに老い人

かいつぶり子を背にのせて泳ぐとも子は覚えざり黄金の夕日も