馬場あき子歌集『あさげゆふげ』より

眼を洗ふこののちくるもの怖けれどわれに残されし時間なほ見ん       おそろしと思はば思へ橋姫の面をかけしわれは鬼なり            若沖はああ天人の碧き眼を鳳に与へこの世蔑せり              狂言師「花に目がある」と叫びたり空爆下の生者負傷者死者の瞠く眼     生きるとはつねに未済の岸ならんいいではないか でも花は咲く       行動の早きもののみが生き残るこれが戦争と知りて走りき          若くまづしく直き愛もつ歌なればこのままでよし誰か気づけよ        川中島にほととぎす鳴くといふ歌の素朴なれども聞きて忘れず        仕事終へてせいせいと夜更けの水を飲むおや黄金虫が眠ってゐる       現実にゆめが入りくるけはひする時ありてふとドア静かなり         現実さへ夢と思はるるゆめの世に海底にゐる空母そのほか          朽ちてゆくかたちはみえて朽ちゆかぬ思いあることなまぐさきなり      歌よみは歌を捨てれば知らぬ人おそろしけれど箴言ならん          亡き人はまこと無きなり新しき年は来るともまこと亡きなり         梅咲けばツルゲーネフの『散文詩』きみの声きくごとく取り出す       衛星のごとく互にありたるをきみ流星となりて飛びゆく           郵便受けにいろいろの鳥は来て止まりおしるしのやうに糞を残せリ