挽歌

昨年の6月に母を亡くしてから、母の歌が次々と生まれくる。歌は、挽歌でもあると聞いた事がある。思いを掬いとって31文字にこめる、情の器の短歌。亡くなった母を詠める時に詠んでおきなさいと、沢山の方から励まして頂いた。

米川千嘉子第三歌集『たましひに着る服なくて』から

いづこなる時間が腐む栗の花ふさりふさりと空すべり落つ

ふゆぐれのさびしい儀式子を拭けばうす桃色の足裏あらはる

蟷螂の三角のあたま毀れたる夜へ月光採集人きたり

つくづくと生きたればもうよしと言ひてひとつかみなる心飛びたり

白鳥とふ白おそろしき質感に冬かなしみしものも帰らむ

〈お月見集会〉子の手をひいて出でゆけばどの子の耳もしろくそよげり

家族のこと誰か占ひたり深夜ガラス瓶にはスパゲティ立つ

泣いて泣いて泥の匂ひののぼりきて扉をひらきたり息子と冬野

お手紙ごつこ流行りて毎日お手紙を持ち帰りくる おまへが手紙なのに

本棚にちひさき人の渡りゆく音と思へば本崩れたり

父の脳照らしてすすむ光ありそこに凪ぎゐる風と木と人

〈ママを食べる遊び〉かんがへ耳や指襲ひきて子はやがてくるほし

永遠に死児は年とる年とりし幼な子のこゑ秋のたんぽぽ

秋はあをし 二十年まへ制服のなかのからだをしんと見つめたり

父のみの父の崩るる図鑑にはおほみづあをのみづうみのひびき

父看にゆくは逢ふことに似てこれ以上木はくれなゐに深むをやめよ

木のなかの水ひらく速度うつくしく弟は若葉兄の木は青葉

たましひに着る服なくて醒めぎはに父は怯えぬ梅雨寒のいへ

病む父と母が疲れて眠る家雨の中なににも喩へたくなし

井戸のぞくやうに兄弟は見てゐたり離れし魂、永久落下する父を

喪服の母とほく見てをればくるくると悲しみに裏返るごとくふるまふ

時間をチコに返してやらうといふやうに父は死にたり時間返りぬ

花終へて緑となりし藤のした明恵『夢の記』は緑のかなしみ

青梅を子よ踏むなかれ家族には死者加はりし夏のやさしさ

新年はちりちりさびし七草粥炊けば白布に刺繍したやう

弔辞

友が亡くなった。まさに晴天の霹靂。癌とたたかっていた事、それも再発であった事すら知らなかった。通夜に参列しホテルに戻ってから、友とのいろいろな思い出がどっと押し寄せ、気づけば朝の4時過ぎ。ホテルに備えてある便箋に友におくる言葉を書き連ねる。弔辞の依頼は受けていなかったが、是非にと読ませて貰った。それでも、一方通行の言葉はむなしさばかりが募りくる。

   弔辞

Aちゃん突然の訃報にまだ信じられない気持ちでいっぱいです。Aちゃんと初めて会ったのは同期として会社に入ったときです。同じ課に配属され、共に分析を担当しました。遅くまで残業した時、配達してもらった“いちろう”のうどん美味しかったね。Aちゃんあなたは本当に天真爛漫な方でした。人の寿命を物差しにたとえて、太くて短いとか細くて長いとか言うけれど、私は、その物差しには目盛りなど無くて、その人の手触り、厚みと温もり、色合いがあると思っています。あなたはあったかい人だった。ふんわりと人を包み込んでくれるAさんの名前の通りの奥深く心の豊かな人でした。色にたとえるなら、真っ白なキャンバスのような純真なお心の人でした。そのキャンバスには今、69年の歳月で描ききったやさしい色合いの風景が広がっています。あなたの溢れるようなやさしさは何時までも私達の心にも溢れ続けるでしょう。あなたに会えて本当に良かった、有難う。心よりご冥福をお祈りします。

令和元年12月19日

村田光江第一歌集『記憶の風景』

千葉県鎌ケ谷市のカルチャー教室でともに学んでいる。かって、編集者として携わっておられた雑誌『教育』のなかからのニ編のエッセイもあり、〈私のうけた戦後教育ー混乱と模索の時代〉等、なかなか読み応えのある御歌集。

楽章と楽章の間に聴衆らみなしわぶきぬ可笑しかりけり

ハープ弾く乙女の裸像の太股にネオンが光る雨のバス停

敗戦を告ぐるは確かにヒトの声母の肩揺すりし少女のわたし

少年のごとき声して征きし兄野太き声となりて帰還せし

流星は窓辺の八手の花に消え〈動かぬ星も見よ〉と囁く

人類の暴挙の果て野にあふれいるコソボ難民は戦時のわたし

〈鴉だって希少になれば保護される〉子はポソリ言う朱鷺生れし朝

ずっしりと雑誌のゲラを抱えたる若き日のわれが玻璃戸に映る

朝わたす校了紙の角きっちりと揃えて社を出ぬ午前一時に

納棺の死者はかすかに眼あけ顔かたむけて生者見ており

スポットライト浴びつつデモせし日も遠く議事堂いまも寂しき風吹く

にんげんの鎖は基地をかこみたり首脳ら海むきほほ笑みかわす

生き難きうつし世視るを拒むごと和上やわらかに目を瞑りおり

ご入館記念スタンプ逆に押し、さかさづりの茂吉が苦笑いする

かつて軍歌を拒みし兄よ戦友の「若鷲の歌」いかに聞きいん

自が生き方おのれの自由にならざればパンダ諦観しふてぶてと寝る

チロル帽かぶりて医院に向かう夫うしろすがたのしぐれていくか

「武器輸出」いうやからには憲法を守れと論破したき秋の夜

宮島にもみじまんじゅう食みしとき鹿にバッグをなめられており

「冬の旅」流れる野辺のしぐれどき笠をかぶった山頭火がよぎる

篠原節子第2歌集『雨のオカリナ』

これからも全身全霊短歌に精進していきたいという、作者。第一歌集『百年の雪』から三年にして、たちまちの御出版である。

少し勝ち少しは負けて今日は雨、耳あかるます君のオカリナ

とどめ得る若さなどなく手のさびしレモンをひとつゆつくりかじる

同じ時をみんなで生きてゐるんだよ陽だまり岬の素心蠟梅

骨壺の底からきこゆる母の声もう少し自由に生きたかつたと

あんぱんもクリームパンも夕焼けてしんみり重い東京駅は

表情にさびしさ見ゆる介護写真一葉もどしぬ冷えしアルバム

縦じまは男踊りよ、かすりは女 芭蕉布の島は基地消えぬ島

それぞれに亡き人の居て踊りたり命どう宝とさとししおばあ

夢のない顔して車窓にタオル干す男の上にも銀河ながるる

友のゐて夫ゐて子居て師匠ゐてそれでも一人十薬にほふ

齋藤芳生第三歌集『花の渦』

さて私のつくる歌は、私という人間は、と自身に問いている作者。歌集のなかにある濡れるの動詞。パレスティーンの少年、群青の朝顔、朽葉、街、山も濡れているなり。

林檎の花透けるひかりにすはだかのこころさらしてみちのくは泣く

あ、まちがえた、とつぶやく子どもの鼻濁音嬉しくてぽんと咲く木瓜の花

間違いは誰にでもある 消しゴムで消してはならぬこと、消えぬこと

ああ春の向こうからどっと駆けてきてふくしまの子らがわれの手を引く

パレスティーン、と少年答えその眼伏せたり葡萄のように濡れいき

死者の数簡潔に伝えらるる夜の器ふるふる豆腐ふるわす

集落の遠き冷夏を記憶して群青の朝顔は濡れたり

ひとを恋う髪すすがんとする水のするどくてはつか雪のにおいす

その枝のあおくやさしきしたたりよひとは水系に傘差して生く

みちのくの春とはひらく花の渦 そうだ、なりふりかまわずに咲け

三十代のこんな端っこが焦げていてなんてことだろう君という火は

わたくしのこころ傷んでいるところつうっと流るる桃畠の雨

宙に浮く巨き眼と向き合えば昏きこころに浸み出す水

金の砂、はた銀の雨わたくしの三十代にながくふりいし

会津というふかきうつわにうるかしておけばじゅうぶん 哀しみは癒える

銀河という瀑布を仰ぎずぶ濡れになったこころに、何も聴こえない

スノウ·ドームのなかに籠っているような一日だった添削をして

ほったらかしにされてうれしい日なたみず三月の花をうかべていたり

ふくしまをはるばると流れきて濁る河口に春はとどまっている

飢餓と餓死

人生最後の食事には好きな物をたらふく食べたい。でも、死にむかっていく体には咀嚼する力、飲み込む力、消化する力、全てが無いに等しく、とても果たされない願望。母を看取りながら切に思ったのは死とは、飢餓状態が続いて全ての生きる力が削がれていく餓死。母の兄は太平洋戦争で南方の島から帰ってこれなかった。大勢の兵隊さんが餓死したであろう南方の島。母は死の際まで意識ははっきりしていた。それはまるで、帰って来る事のできなかった長兄の苦しみを身をもって体現しているようであった。

兵士らに餓死多かりしをまたも言うじやがいもの皮をむきつつ母は

命日は終戦の日と決められし長兄自決と母は言ひきる

餓死もある戦死の扱い抹殺も大本営にかかはりし伯父

「地獄のやうだ」母は半生語るとき戦死の兄が中心にゐる

生きられなかつた兄の無念を生きてゐる生かされてゐると母の渇きよ

谷光順晏歌集『空とかうもり』から