太田芙蓉第二歌集『小丘萌ゆ』
平成24年から令和2年3月まで、かりん誌に載った御歌からの御歌集。作者が訪れた日本各地、外国を詠まれている御歌が一冊の中に溢れている。
この世はうたかた、かりそめの夢、仮りの宿りとも、そんな感覚にふっと、とらわれてしまった、不思議な御歌集。
日高堯子氏は帯文に、日常から夢幻へ、夢幻からまた日常へ。その往還へのまなざしをいよいよ深めた第二歌集であると、寄せられている。
まねくとも指すとも知らぬ 観音のしなやかな五指宙に極まる
風はきずを曳くと思いぬ初夏の桔梗五弁にあおき傷ある
列をふとはなれたくなる癖ありぬあきつは夕べいずこまでとぶ
参道にわが影淡しわが影に寄り来る何か 何か寄り来る
山と海の間合いの憂いとなっている原発がまた動きはじめた
恐山ふうせんかずらに似し月がやぶれそうなり眠れずに居る
古宿は何か音するちょうど今「鬼に喰われた女」読みおり
エスコートする夫でなくされる妻でなく百二十度の視野にいるなり
銀河濃しへびつかい座の息子と嫁が句跨がりのごと話す縁側
うしろから身を透きぬける風ありて夕顔咲けば母よ逢いたし
どうしても「無」の字で止まる夜の写経 棄てすぎしか遺品も愛も
結界は無けれど朱の橋わたるとき山神さまに俗削がれけり
きつね施行した寒の夜父が居て叔父も兄も居てもう誰も居ぬ
うつつ闇見しかと奥へ竹の奥へ古希にて未だ逃げる日のある
中平武子第二歌集『しらべは空に』
中平様は第一歌集を編まれた時、歌は自分探しでもあり書き留めることはささやかな生きる証であるとあとがきに記されている。それから16年目のこの度の第二歌集『しらべは空に』では短歌はアルバムのように自分の人生記録であり愛おしいと記されている。
ぶなの木のうちなる音を聞かんとし橅と吾とはひとつになりぬ
沙羅双樹けさ咲きたると散りしもの朝のひかりに何れも白し
菜の花のひとひら一片日を受けて輝く朝はわれも菜の花
朝夢にふはりと吾を抱きとめしひと誰ならん醒めて羞しむ
関はりて七年経ちぬ 逝きし人の介護記録を黒紐に綴づ
簡略に葬られる人よ許したまへ われの拙き般若心経
無骨なる手足を恥ぢて生き来しが転ぶ時にも守られてをり
自づから出づる吐息のふかぶかと身のいくばくか軽くなるらし
顔も手も潰えし羅漢の歳月に保ち来しものわが身にひびく
わが背筋知らず伸びをり仕事場へ日々に通ひし駅過ぐる時
道化師がパントマイムに押してゐるあらざる壁を見てゐる広場
土屋千鶴子第四歌集『一行のスープ』
私は一冊の詩集を出している。1987年、今から33年前の38歳の頃、『しんきろう』というタイトルであった。このたび、土屋千鶴子様より第四歌集『一行のスープ』を賜り、そのなかの
うすくうすく透きとほりたる若き日の言葉のやうにくらげは泳ぐ
の一首に出会い、くらげを詠った詩を思い出した。あの頃のように透き通る言葉で、飾りのない言葉で、一行のスープのように人の心に染みわたる歌が詠めたなら嬉しい。
安全な神さま買ひに行つたのに取扱注意と紅梅わらふ
振り終へたタクトのやうに五重塔黒くしづもる夕焼けにをり
青すぎる夏空の下放牧の馬はすずしく歩みてゐたり
父ねむる墓に花置く沈黙と骨のみ残しし人生もよし
どうしたら希望持てるかといふ講座真面目にメモるサクラのわたし
お役に立てて幸せです 一行がスープのやうにしみわたる恋
こころとは余るものなり捨てにゆく心は〈燃えないゴミ〉に区分す
ほんたうは戸で閉められた世ではなく舗道の隅に揺れてるスミレ
手裏剣のごとく殺意を繰り出せど千年けやきはあくびするのみ
白いゆめ真つ赤に染めて曼珠沙華われの保身の無言ゆるさず
園田昭夫第一歌集『少しだけ苦い』
園田氏は高校生の時石川啄木の歌集に出会い、「新しき明日の来るを信ずといふ自分の言葉に嘘はなけれど」など日日の中でどれだけ励まされたか知れないとあとがきに記している。お父様を詠まれたお歌に「職人の父の飯場暮しに仲間らのわれへの苛めやむことのなし」があり、私は自身を重ねてしまう。貧しくて病弱な私の父は身体も小さく、飯場の飯炊きをしていた。まわりから、「ハンバの子」と呼ばれるたびに子供心に何か違和感のあった事など思い出される。
この歌集の中には様々な音楽が流れている。作者の日日の時間の流れの中にあるその時々の思いがリズム、ハーモニー、メロディに巧みに1首にあらわされている。社会の歪みに対する反骨心に圧倒される。
遠き日の飢えの記憶のよみがえる昼のサンマ定食大盛り
戦力外の通知受けたり六十九歳第四楽章のいまはじまれり
オペを待つ戦慄のなかマーラーの第九のピアニシッシモに心を鎮め
被爆せし長崎体験語らずに伯母はひっそり市井に生きたり
独奏のチェロの調べはわが洞の一筋の糸ふるわせてゆく
マーラーの第九を耳に畑仕事裸木をすかして夕日の赤し
引き際の危うさ思いチャップリンの「ライムライト」をまた観ておりぬ
プーシキンと啄木ともに愛しきていまこそ生意気ざかりのわたし
地下ホールの戦争体験語り継ぐ会へと蝉声に背を押され行く
陽炎の中へと押し行く乳母車兵士の親になりたくはない
バスの中に鏡みつめるおとめごは鑑賞されたり冬の水仙
のびやかなベームの「田園」聴きながら朝の菜園ニンジン間引く
草を刈る鎌にありあり感じたり丸木夫婦の「沖縄戦の図」
ほのかなる苦味たのしむ菜の花の茹で加減見つ男の料理
河上肇「言うべきは真実語るべし」胸に刻みてわれは生き来し
空席の折り鶴悲し「被爆国」草の根の力世界を押せる
まとまらぬ会議のはての憂鬱にマーゼルの「ボレロ」くりかえし聴く
黙を解きいまこそ歌えブリテンの「戦争レクイエム」世界の声に
通販に『土俗の思想』購いぬタバコの匂い付録なりけり
散る花の限りもあらずいつしらにアメイジング·ソングくち遊みおり
藤本満須子第三歌集『如月の水』
作者は1939年生まれの「歌林の会」の方。これまで様々な水の歌を歌い続け、それらの水の歌が作者自身の81年間の根幹となっていると、あとがきに記されている。歌集『如月の水』の表紙の表は、流水文様、裏には雪輪文様が描かれている。流水は、しばしば人生の浮き沈みに例えられ、雪輪は、雪の結晶を文様化したもので豊年の兆しとされている。作者の思いの詰まったこの一冊を正にピタリと表していると思う。
四月の雪スタバの椅子にながめおり芽吹きのいちょう並木濡れゆく
よみさしの『砂丘律』置けばぬめぬめとテーブルにとぶ油吸いたり
八十年生きて命に執着はなけれど痛めば医者に行くなり
左下の奥歯抜かれし空洞にこがらし吹き込む雪文様なり
桜樹のしずくが肩にさくらあめ芽吹くはすぐだ朝の歩道
国のためみごと散りましょ 作詞者の西條八十は死と向きあわず
土佐の雨下から強く撥ね上り靴もコートも地雨に濡れき
スイート·フラペチーノ片手に孫の写メが来るスタバの外に人は流れて
山内活良第一歌集『赤方偏移』
山内活良氏は短歌結社「歌林の会」で共に学んでいる同年輩の方です。山内活良氏の故郷は北海道の美深町。一昨年になるが私は第一歌集『空とかうもり』を出版した折、大変御丁寧なお手紙を頂いた。私の亡き母の出生は網走の津別町、生前母と共に北海道へ二度訪れ、その時の歌も収めている。道産子と呼ばれるのを嫌う方々が多いなか、自らを道産子と仰りお手紙を下さった。この度、第一歌集を読ませて頂き、大切なお嬢様を自死で亡くされていた事を知り、今まで気付かなかった自身の迂闊さが、とても恥ずかしい。
わがために奏でし楽譜の序奏部に「激しく」とのみ娘は書き遺す
わが声はついに届かず高々と影もたぬ子は鞦韆を漕ぐ
失ったものの輪郭そのままに蜜柑の皮は静けさを抱く
もうひとつそこに夜明けがあるように未明の庭に咲く白木蓮
譲れない交渉の席に締めてゆく闘う鉄腕アトムのネクタイ
アダージョの楽章そろり奏でいるエンジェルトランペットの白花
節分の鬼のかなしみ今は亡き子の撒く豆に終夜追われる
光る海美しけれど忘れゆく特急に抜かれるための停車駅
純真に咲いていただろう八月のヒロシマ·ナガサキに燃えたアサガオ
うつむいたまま散ってゆく茶の花の真白さ娘の命日は来る
サラリーマン最後のひと日亡き同僚のメールをひとつずつ消してゆく
巡りつつ誰が人生を変えるのか円かに晩夏をゆく観覧車
粛々と押して行くのみ為政者の声では動かぬこの車椅子
パスワード知り得ぬ悔恨遺書もなく逝きし娘の裡なるファイル
毎朝の仕事は雨戸を開けることいくつ開けてもまた空がある
椿
私は椿が好きだ。特に籔椿の紅色が何とも言えない。1997年発行の馬場あき子第16歌集『青椿抄』のあとがきに次のような一文がある。一部抜粋してみたいと思う。
いま私の眼前にも、椿の青い蕾が日々にふくらみをましている。たとえば『新撰和歌六帖』に、「いやましの八峰にしげるあを椿つらつらものを思うころかな」などとうたわれた「あを椿」とは、「つらつら椿」以来の茂り葉だろうか、またはまだ青い蕾だろうか。私はこの季節の、蕾も葉も青い椿が静かなかがやきをたたえはじめる姿が好きだ。青い椿から思いがけず鶯のささ鳴きが洩れたりして、もう春はすぐそこである。
平成9年2月8日と記されていて驚いた。今日は、2月7日、一日違いだが同じ季節にこの歌集を手に取ることができ、何だか嬉しい。